あの日から十年経って。

Mastodon を眺めていたら 3.11 を扱ったnoteが流れてきた。
読み終わって、もう十年かぁ…と思っていたが、自分の中でかなりの部分を忘れかけていることに気付いた。
これは残すべきだ、伝えていくべき事項だと思っているため、ここに書き残すとする。

地震当時

私は当時 9 歳(小学三年生)だった。
その時は五時間目が終わり、帰りの支度をするために、ランドセルを取りに行こうとしたら地震が発生。
「早く隠れて!」と担任の慌てた声。急いで机に戻り、頭を守ったことを覚えている。

しばらくしたら地震が収まり避難が始まったが、避難する際にもまた地震が発生、私の教室はランドセルを収納する棚があり、その上に水筒を置いていた。ドタドタと倒れてきた。それほど揺れているのかと恐怖を感じた。
するすると階段を降り(ほぼ押されていたような気もするが)、校庭の中央に避難した。
その前にも避難訓練というものはしていたが、はじめて直面した時、人間はその通りをとれないんだなと感じた。

先生方は児童が全員いるか数えていた、泣いてる児童もいた。

帰宅

しばらくすると親父が迎えに来た。
地震が起きて皆迎えに来ると思い、徒歩できたらしい。家から 30 分程度のとこに学校があったため、待ち時間は長く不安だったのを覚えている。
道はガタガタだった。
家についても電気は止まっていたが、母、弟と居て、家族や家は何ともなく、机が倒れた程度だった。
その日はジャンパーを着て、炬燵に足を突っ込み、雑魚寝したことを覚えている。

次の日

弟が腹痛を起こし、かかりつけの病院に行くことになった。
車に乗り、ワンセグを付けたとたん、日本が黄色やら赤の線に覆われていた。そう、津波だ。
あの一夜で多くの人が被害にあい、多くの人が亡くなったのだろう。とても怖かった。
病院についたが、事情で診ることができず、県内の大きな病院に行くことになった。(記憶があいまいではあるが多分そう)
大きな病院に入院することが決まり、弟は小さかったので、母親も一緒に残ることとなった。この時、母親はお腹に子供を宿していて、何かあってもいいようにとのことだったのだろう。憶測ではあるが。

帰宅

親父と二人で家に帰った。、とても暗かった。車のヘッドライトのみが、辺りを照らす光だったことを覚えている。
家につき、いつ、天井が崩れてくるか不安になりながら寝たことを覚えている。

終わりに

実はかなりの間、電気が通らず、情報すら入ってきていない状態が続いていて、津波が来ていたことは把握していたのだが、原発があれほどなことになっているとは知らず、後で調べていて驚いた覚えがある。そのほかにも多くの人が被害にあい、亡くなった。
親父が水が止まると考え、風呂に水をためていたり、知識があったからあまり苦労した記憶がないのだろう。
一つ思い出したことといえば、風呂に入れず、親父の会社の後輩の家にお邪魔し、お風呂を借りたことくらいだ。

人は時が経てば忘れてしまう。
忘れてしまえばそのことはなかったことになってしまう。
被災して生き残っているのだから、後世に伝えていくことが責任だと思っている。
私は毎年、この時期になったら起きたことを思い出し、忘れないようにしたい。

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